目を閉じて悪い夢だと思い込む。俺の対処法。

仕事はクソだ。仕事に彩られる日常はもっとクソだ。

Final Fantasy XIVの高難易度ダンジョンに支配された日常は本当にばかげていた。成人したか成人に近い男女が夜の九時頃に都合を付けて集まり、共通の困難に立ち向かう。しかも互いにそれぞれの役割が果たされていないことを叫びながらだ。それは日常的に経験している日常風景だ。そう、仕事だ。

仕事と違うのは完全な成果主義で、報酬は装備品だということくらいだ。それが成立していたのはそれ以外の日常が充実していたからで、日常が色あせれば、当然ゲームは時間を浪費するだけのソフトウェアに成り下がる。GTX 1080Tiが二機積んであり、5Kディスプレイが繋がっているマシンはただの暖房機になってしまう。

このクソの山のような日常に必要なのは狂気だと確信している。狂気がなければならない。しきりにTwitterで宣伝している漫画によると、この資本主義社会に於いて金銭は命と同義で、その金をいともたやすく流してしまう賭け事は広義の命のやりとりであるが故に、狂っているほど面白いのだそうだ。主張には同意出来るが、実行しようとは思わない。しかし、強い毒を薄めて火遊びをするのはたやすいことだ。

私はその狂気を求めて、外車ディーラーの元を訪れ、300km/h近くで走ることの出来る車を手に入れたり、一枚数十万円の紙切れで遊んだりすることにした。たしかにMagic: the Gatheringのヴィンテージというフォーマットは狂気に満ちているが、遊び始めてみると、その狂気の開始点は到達点と同義であることに気づいた。狂った黎明期のカードのうち、最もおかしな9枚はPower9と呼ばれ高額で取引される。しかし、それらはプレイヤー殆ど全員が持っており、その中で最も高値のつくBack Lotusというカードのデッキ採用率は100%に近い。このカードを狂気の到達点だと思っていたが、実はそうではない。

では車はどうだろうか。このツンドラの大地で手に入った車の巡航速度は250km/hほどだ。しかし、そんな速度で走らせたら、あっという間にタイヤは禿げ上がってしまい、50万円近い請求書に化けてしまう。今まで乗っていた国産のセダンのステアリングがまるで石臼のように感じられたり、加速がナマケモノより遅く感じられることなど最早どうでもいい。冷静に考えれば、この車はドイツ製だった。狂気などあるハズがない、正反対の緻密さだけがある。計算された狂気など正気以外の何物でもない。だが、イタリア製の車を買うのはもっとばかげている。氷雪の土地の上でそんな車を走らせるのは狂気とは言わない。無謀というのだ。

では狂気を味わうためにはどうしたらいいのだろうか。
日常が退屈であればあるほど、非日常は狂気じみてくる。おなじV8でも、100km/hが巡航速度である日本車と、180km/hが巡航速度である欧州車とでは訳が違う。この二つの間で相対的に狂気を感じ取るしか、最早残されていない。

或いは、このツンドラでの生活に向いていないのかも知れない。
それならば、この生活に見切りを付ける必要がある。そうすれば、最低地上高や駆動方式を気にしたりすることもなくなる。電気代はもっと安くなり、ガソリン代を気にすることもなくなる。ああそうだ。その方が幾分マシかもしれない。都会の物価さえ気にしなければ、の話だが。

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